毒蝮三太夫さん(1936年3月31日生、89歳)
長嶋茂雄さんとの思いで!      空襲体験を語る!

「長嶋茂雄さんとは誕生日が1カ月違いで弟分としてかわいがられた。監督をしていたときは、バッターの高田に送りバントのサインを出すのに、送りバントの恰好をしちゃって、みんなが分かっちゃったり。人がいいんだよ。雑誌で長嶋茂雄さんのお母さんを実家で取材したこともあってさ。素朴なお母さんだった。俺が行ったら『今日だったの?』って驚いてて。取材は翌日だと思ってたみたいで、お母さん、白髪染めをしていて、頭が半分しか染まってなくてね。黒く染まっている方から写真を撮ったっけ。長嶋さんのそそっかしいところは、お母さん似かもしれないね」
「長島茂雄さんとは、闘病中に2回、会った。車椅子だったけれど俺を分かって、不自由な手で握手をしてくれて。晩年の病気は本当に悔しいよ。これから長嶋さんの分まで命を大事にして、生きていきたい。それが長嶋さんへのお返し、供養だと思って」

「俺が住んでいた東京・荏原区(現品川区)に米軍の空襲が始まったのは1945年5月24日の午前1時半ごろ。500機もの米戦略爆撃機B29が。空襲警報のサイレンで、俺はとびおきた。シュルシュルと嫌な音とともに焼夷弾が落ちてくる。バケツリレーに加わったが、火勢は増すばかり。もう逃げるしかない。お袋は俺の手を引き、高台の空き地を目指した。距離は500メートルほどだが、長く感じたね。空き地から見上げた東京の空は真っ赤で、俺の家があったあたりは、焼け野原になっていた。翌朝、煙がくすぶる空襲跡を歩くと、首や手のない死体がごろごろしていた。俺たちは兵隊じゃない。なんで焼夷弾が落っこってくるんだろう。そんな気持ちが何度もわいたよ。 昔の戦争は武器を持っている者同士が戦っただろ。でも空襲でやっつけられたのは無抵抗の女性や年寄り、子どもだ。卑怯なやり方だと子ども心に思ったね。年月を経るほどに、あれは卑劣な殺人だとの思いが強まっている。人間は愚かだよ。あの後も世界のどこかで無残な戦争を続けてる。何があっても戦争だけはしちゃいけないよ」